『大化の改新』とは?何が、どうしておきたのか?
今回は、大化の改新について、中学生の僕が学校の教科書を参考に解説していきます。
大化の改新とは
ざっくり説明すると、大化の改新とは
645年に、中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(後の藤原鎌足)などと共に、蘇我蝦夷・入鹿の親子を倒し、豪族が管理していた土地を公地・公民として国家が直接支配するなど新しい仕組みを作る改革を進めた
ことです。
もしあなたが、
「ナカノオオエノ オウジ? ナカトミノ カマタリ?... ソガノ エミシ・イルカ?誰それ?」
とか、
「なんで蘇我蝦夷と入鹿は倒されちゃったの?」
と思ってしまっていても、大丈夫です!
この記事では大化の改新がおきた理由や、この人物たちの関係について詳しく書いていきます。
ちなみに大人の人は
と、習った人もいるそうですが今は、
”倒したこと”ではなく、
「”倒してから進めた改革のこと”を大化の改新という」というふうに学校の教え方が変わっています。
大化の改新がおきた理由
蘇我氏とは
6世紀の日本では、地方の豪族たちが反乱を起こしていました。
(豪族は、「めっちゃ力を持ってる人」と、覚えておけばいいです。※テストで書いたらダメですよ!)
また、大和政権(大王のいる巨大な勢力)の中でも蘇我氏と物部氏などの豪族がそれぞれの支持する皇子(天皇の子供)を大王(天皇)にしようとして争いが続きました。
つまり蘇我氏は、大和政権内の豪族ということです。
蘇我氏と皇室は多くの血縁関係を持っていて、深い関係にありました。
豪族たちの争いを和らげるため、推古天皇という女性の天皇が即位しました。
聖徳太子は蘇我馬子と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、大王(天皇)中心の政治制度を整えようとしました。
つまり6世紀後半の時点では、蘇我氏と天皇家は協力関係だったという事になります。
などをつくりました。
なぜ、蘇我氏は倒されることになったのか?
ここまで話していくと、
「え?天皇家と藤原氏は仲良かったんでしょ?なんで倒されちゃったの?」
という疑問が出てくると思います・
その疑問に対する答えは簡単です。
『藤原氏が力を持ちすぎて独裁的な政治をしはじめたことに不満が高まったから』
です。
すると、蘇我氏の力が強くなりすぎて独裁的な政治をするようになりました。
すると、天皇家や豪族たちは、蘇我氏の独裁的な政治に不満をもっていきました。
こうした中で645年に中大兄皇子が中臣鎌足などとともに、蘇我蝦夷・入鹿を倒しました。
ここで、中大兄皇子や中臣鎌足、蘇我蝦夷・入鹿親子の人物紹介をしていきます。
中大兄皇子は、後に天智天皇という天皇になる人で、645年時点では皇子でした。
中臣鎌足は、後に藤原鎌足になる人です。藤原氏は当時、天皇家に近い豪族で、平安時代に栄えることになります。
藤原氏と皇室は、後に多くの血縁関係を持つことになります。
蘇我蝦夷・入鹿親子を倒した後の中大兄皇子の改革
蘇我蝦夷・入鹿を倒した後、中大兄皇子は鎌足や、髄から唐への移り変わりを見てきた留学生や僧などの協力を得ながら新しい支配の仕組みを作る改革を始めました。
中大兄皇子は、改革として以下のことを進めました。
などのほかにも、645年に日本で初めての年号、『大化』が定められました。
この年号、『大化』にちなんで中大兄皇子が行った改革のことを『大化の改新』といいます。
まとめ
大化の改新について、理解していただけましたか?
最後にまとめると、
『蘇我氏は力をもちすぎて独裁的な政治をしはじめ不満が高まっていた。こうした中、中大兄皇子が中臣鎌足などとともに蘇我蝦夷と入鹿を倒し、その後に進めた改革のことを大化の改新という』
ということです。
テストでは、改革の内容について聞かれることがありますので、公地公民のことはしっかり覚えておきましょう。